小さないのちを守る会の歴史と証し(その6) 辻岡敏子
2012/04/28総会に於いて〜
1989年の1月初め、親にも言えず相手の男性と結婚も出来ず、自殺するしかないと思い悩んでいた妊娠中の女性から電話がありました。その緊急の電話を受けた私たちは緊急避難の場所として、初めてその女性を我が家に迎えて出産まで家族の一員として生活し、やがて新しいいのちを無事出産しました。この女性は「お母さんボクを殺さないで」という菊田昇産婦人科医師の本を読み、養子という選択があることを知って、小さないのちを守る会に電話したのです。そしてこの女性は、小さないのちを守る会の会員であり、協力医師の埼玉県南福音診療所の石黒妙子産婦人科医師に初めて取り上げていただいたケースです。
私たち家族は、その後、同じような女性を何人も我が家に迎えて生活を共にし、小さないのちを助けることが出来ました。また、この女性の話をきっかけに辻岡がハーベストタイムのテレビ番組に何回も出演することになり(計10回以上放映)、小さないのちを守る会の働きが話題となりはじめました。
また同時に私たちは、公の場で、いのちの尊厳を訴えていくために、原宿歩行者天国で家族5人と会員3名で、中絶防止のゼッケンを胸につけ、キーボードで賛美し、トラクトを配布して原宿キャンペーンをしました。その最中に、10数名の若者が「アンタたち何やってんの!」と抗議し、罵倒し始めました。中絶賛成反対の日本初?の野外公開討論会となりました。当日、日本の社会問題に真正面から取り組み多くの作品を世に送り出していた映画界の名監督、今村昇平氏が校長を務めていた日本映画学校の生徒たちが、卒業制作のドキュメンタリーを撮りたいと連絡があり、小さないのちを守る会の働きを撮影計画中で、「原宿キャンペーン」の現場を撮影することになっていて、カメラを壊されないかと緊張の中で収録し続けてくれました。
原宿の歩行者天国で遠巻きに群がる何百人もの前で、ハンドマイクを使用しての3時間近い中絶賛成反対の論戦・激戦でした。後半には警官も数名見守る監視の中で、荒井カメラマンも緊張の激戦をカメラで撮ってくださいました。中絶賛成反対(プロライフ/プロチョイス)の激論の続く中、辻岡は、神様の導きを頂き「私は胎児の代弁者です!」と論破しました。これは、まさに神様からの知恵でした。少年ダビデと巨人ゴリアテの戦いの如く一歩も退くことなく、ひるむことなく、神の名による戦いであることを体験させられました。私も体が震えていましたが、マイク持って一言叫びました。何をどう話したかは覚えていませんが…。
東北米沢のゴスペルマジックセミナーで知り合った沖縄のワールドキリスト教会の上間一昭牧師が、小さないのちを守る会の趣旨に賛成してくださり、沖縄に招いてくださって6日間で12回の集会(教会、家庭集会、琉球大学等々)を計画してくださいました。
これが「小さないのちを守る会 沖縄支部」誕生の引き金となりました。感動的な沖縄との出会いです。そして次第に日本各地に支部も起こされ、小さないのちを守る会の働きが日本全国に広がりはじめました。