小さないのちを守る会の歴史と証し(その4) 辻岡敏子
2012/04/28総会に於いて〜
1984年、小さないのちを守る会の理念や働きをより多くの人々に理解していただき、賛同を得るために、4月15日から17日まで2泊3日、東京郊外八王子の大学セミナーハウスでセミナーを開催しました。50名前後の参加者で、牧師先生方も多数出席してくださり、祈りと使命に燃えたセミナーでした。
セミナーのテーマは『軽視されているいのちと混乱している性に切り込む新しい分野を開く伝道セミナー』という大変長いものでした。でもこの題の中に小さないのちを守る会の使命と責任のすべてが凝縮されていると思います。セミナーの講師は、キリスト教倫理学に造詣の深い多井一雄先生、上沼昌雄牧師、南福音診療所産婦人科医石黒妙子先生、同じく青梅総合病院の産婦人科医松永雅雄先生、いのちの電話テレホンカウンセラー小林千里姉、そして24人の里親の母三崎豊子姉と多士済々でした。
テレビ伝道をされていた中川健一先生夫妻も参加されて、「小さないのちを守る会の働きは日本にリバイバルをもたらす働きであり、日本のリバイバルは、実に、小さないのちを守る会の今後の働きに掛かっている」と発言され、大きな励ましを受けました。
その後、同先生主宰のテレビ伝道番組、当時PTL後にハーベストタイムミニストリーズに何回も繰り返し出演する機会が与えられ大きな反響をいただきました。
同年11月に「PLJ事務局ニュース」No1を手書きで発行し、宛名も手書き、切手も一通々々貼る手作業で、会員に祈り心で発送したのも懐かしい思い出です。(題字は会員のグラフィックデザイナーの大高重治氏)
1985年7月、アメリカのカリフォルニアで日本人伝道会議が開かれ、辻岡が分科会の講師として出席し、小さないのちを守る会の働きや理念を訴え、参加者全員に好評を得ました。その会議の中で特に、この分野で結婚や家庭に造詣の深い先生が、個人的には限界があったことを思い出されて、小さないのちを守る会で是非ともこの働きを拡大し完成させ神の栄光のために励んで下さいと、熱心に申し出られて大きな励ましを受けました。
会議終了後、アメリカで同じプロライフの働きをしているCPC(危機的妊娠援助センター)のワシントンDCに8日間滞在して、アメリカでスタートしたばかりのプロライフの働きを見学し、また日本でテレビ出演しているビデオを上映し 情報を交換。日本の働きに感動してくださりお互いの プロライフの働きを祈り合い、国境を越えてクリスチャンとしての社会的使命と責任を分かち合いました。この年、会員数105名。
1986年5月、韓国の児童聾唖者の施設に招かれた車椅子の牧師の介助者として韓国行きに同行して荒井志朗カメラマンと初めての出会いとなりました。そして以後、荒井氏は小さないのちを守る会の専属カメラマンとして活躍することになります。
この年、前年に「女性自身」、「婦人公論」の中絶特集の記事を読んだ女性がそれぞれ我が家に相談にいらっしゃいました。1人はいろいろな経緯の後胎児の父親と結婚し出産することが出来ました。もう1人の女性は遠路上京して、両親からの中絶の強い奨めを振り切り無事出産しました。最終的に自分で育てることを決意し、私たちは双方の社会的立場また利害関係の狭間で調停役をして、最終的に女性の意志を尊重して何とか無事出産することが出来ました。辻岡が名付け親になり、育児にも関わり、赤ちゃんが小学生過ぎ位まで係わらせていただきました。